ESSAY

ESSAY | インスタポンプフューリーに、どきっとさせられた話

「こうでなければならない」は服に出るけど、服で変えられる。

 

ふとはっとさせられた、隣のチームのあの子のはなし。

いつもは、勤務場所が違うから会えないあの子。
しばらくぶりに会っていなかった姿を、ふと、社内の廊下で見かけた時。

「あ、久しぶりに見たな」と思った時の足元が、Reebokのインスタポンプフューリー。
オシャレさんなら誰もが知ってる、ごつめのハイテクスニーカー。

なぜだかぱぱっと全身が気になって、思わずスタイリングチェック。

 

ゆるやかでやわらかい質感の、
でもバックシャンで女性っぽさとカジュアル感が共存したカットソー。

アシンメトリーで強弱がついたアーティなデザインが目に止まる
大きめチャームのゴールドのロングネックレス。

そして、落ち感がきれいなワイドパンツに、
黒のインスタポンプフューリーで締めくくった、足元。

なんだかその抜け感に、瞬間的にいろんな思いがよぎったのでした。

 

ここからは、妄想。

 

いつもその子は、颯爽と歩く姿が素敵だった。

シフォン素材のブラウスに、きれいめの細身パンツを合わせて、
足元は常に、5cm以上のヒールを合わせていた。
凛とした佇まいや、綺麗な顔立ちに、そのいでたちはとてもよく似合っていて、
“他を寄せ付けないほど”美しいな、と思っていた。

あまりにも綺麗すぎる「あの子」は、
あまりにもきれいなファッションの中に自分を当てはめていた、ようにも見えた。

 

ある時、そこで見かけたインスタポンプフューリー。

ふと、前に聞いた、彼女休日の話を思い出した。
休日は、キャップにTシャツにパーカー。ちなみにすっぴんでマスク。
全然違うんです、とちょっと恥ずかしそうに、教えてくれた。

彼女が見せてくれたスタイリングは、きっとその休日のそれに、近かったんだと思う。

 

***

もしかしたら、この新しい日常の中の、ほんの少しの変化かもしれないけれど。
たまたまそれが履きたくて、スタイリングになっていたかもしれないけれど。

どこか「自分とはこうあるべき」という昔の”ファッション”から
自分はこれが楽という、自然体の”ファッション”に少し変わったんじゃないか?と
そう思わせられた出来事だった。

 

服は、あくまでただの「服」かもしれない。
でも同時に、ただの「服」だからこそ、その選択には自分が出るし、
自分のスタイルも知らないうちに写っていることがある。

 

「自分はこうありたい」という姿がファッションににじみ出た時に、
それが、芯の自分らしさの表現につながってるのではないだろうか。

もし、自分で自分が変えられないのであれば、
服から変えるという、荒療治だってある。
いや、魔法と呼びたいかもしれない。

 

着る服を選ぶのは、自分。
だからファッションは、つまりは自分自身。
そうやって身にまとうものを、ひとつひとつ大切にしてみること。
自分の心が本当に求めるものを、選んであげること。
そうすると、きっと何かを教えてくれる。

 

このやりとりを通じて実現する自己発見こそが、
やっぱり、ファッションの醍醐味だと思うのです。